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News & Blog

  • 執筆者の写真Masayuki Mahara

TEA FOLKS21 鶴田製茶 鶴田秀登さんのご紹介

更新日:2023年2月19日


TEA FOLKS(ティーフォルクス)は2カ月に一度、2茶園のプレミアム和紅茶を茶園のストーリーとともにお届けする定期便サービスです。

定期便価格で最新版をご希望の方はこちらからお申込みください。

各便のバックナンバー及び個別の茶葉単体販売も行っています。(在庫次第となります)





1. 鶴田製茶「いんど」の特徴





今回お届けする紅茶は、鶴田製茶の2022年春摘み「いんど」です。

「いんど」は紅茶用の品種として、「あかね」や「はつもみじ」と同じ年の1953年に茶農林12号に登録されました。


来歴は鹿児島県で選抜されたインド雑種の実生選抜品種です。そのため農林登録以前は鹿印雑2号と呼ばれていました。


優雅な中国茶風の清香があるとして、その香気を認められた「いんど」は知覧を中心にその苗が配布されました。


品種の名前からは寒さに弱そうなイメージを受けますが、意外にも強い耐寒性を示しています。


また収量にも優れており、国産紅茶産業が全盛であった1954年には「はつもみじ」「べにほまれ」に次いで3番目に広い栽培面積を誇りました。

  • 参考:日本紅茶協会『20世紀の日本紅茶産業史』2003.1


鶴田さんは初めから「いんど」を育てていたわけではなく、同じ鹿屋市内の紅茶農家が廃業する際に「いんど」や「いんざつ」が植えられていた畑を引き継いだそうです。

鶴田製茶の「いんど」はやや細かな形状をしており、インド系品種らしい力強さを湛えながらも春摘みの優しさを感じられる味わいです。


モルティな香りをはじめ、花香や、濃く抽出することで梅のようなフルーティーさを感じられることもあります。

2. 国産紅茶用品種と和紅茶の歴史

太平洋戦争が終結すると、国土の荒廃に伴う茶園の減少や、和紅茶にとって重要な産地であった台湾が日本から独立を果たしたことにより、紅茶を含む日本茶の生産量は激減します。


しかし、戦争はインドなどの主要な紅茶輸出国の生産量にも影響を及ぼし、世界的に紅茶の供給量が減少しました。

主要な紅茶輸出国の低迷や、また日本の戦後復興支援を行ったアメリカ合衆国に対する見返り物資に茶が指定されたことをきっかけにして、紅茶を含む日本茶の生産量及び輸出量は徐々に増加していきます。


「いんど」や「あかね」、前号でご紹介した「べにひかり」などの紅茶用品種はまさにこの時期に、海外輸出向けの紅茶を作るために育成されました。

しかし、1950年代中頃から日本が戦後復興を遂げると国内経済は著しく発展し、1964年にIMF8条国へ移行したことで先進国の仲間入りを果たします。

この頃からインドやスリランカ、ケニアなどから紅茶に対する輸入関税の引き下げ要請が繰り返し行われました。


1950年代中頃まで生産量が増加傾向にあった和紅茶は専ら輸出されていましたが、56年以降生産量は減少傾向に陥り、輸出量も減少します。


そして、1971年に紅茶の輸入自由化決定がされると、それ以降の和紅茶の生産量は殆どなくなり、地産地消の産業として残る程度になりました。


その際に当時の紅茶用品種は抜根されるケースも多かったため、「いんど」は今ではかなり希少な品種となっています。



3. 鶴田製茶のはじまり

鶴田製茶は鹿児島県鹿屋市の輝北町に位置しています。

大隅半島のほぼ中央にある鹿屋市の気候は温暖で、また多くの雨が降るため特に第一産業が発展しています。

鹿児島県は静岡県に次ぐ荒茶の生産量を誇るお茶処です。大規模化した平坦な茶園が多いことが特徴的で、機械を使用した農作業の効率化が図られています。


また明治時代に国産紅茶産業が勃興すると、枕崎の茶業試験場では積極的に紅茶用品種の開発が行われ、現在鹿児島県の紅茶生産量は全国1位となっています。


鶴田製茶は鹿屋市輝北の土地で1960年に始まりました。1971年に現園主の鶴田秀登さんのご両親が結婚し、今の工場前の茶畑の半分以上にお茶の苗木を植えたそうです。


お父様が茶業をやられていた頃は、農薬を用いた慣行栽培によって主に緑茶の製造を行なっていました。


秀登さんは農業高校を卒業すると、そのまま農業大学に進学します。

農薬の臭いが嫌いだった秀登さんは学生時代には既に、実家の茶業も上手にやれば無農薬栽培に切り替えられるのではないかと考えていました。


在学時にホームステイでアメリカへ渡った際、向こうではトマトなどの野菜が無農薬で育てられているのを目の当たりにし、改めて自社茶園での無農薬栽培に関心を寄せていきました。


その後、秀登さんは大学を卒業すると鹿児島市にあるJA鹿児島県経済連の茶市場で1年間の研修に従事します。


研修期間の終わる1993年の3月以降は実家に戻り茶業を継ぐことを決めていました。

実家の茶畑を引き継いだ秀登さんは、早速三反の畑と五反の畑で試験的な無農薬栽培に乗り出しました。


元々、お父様は少量の農薬しか使っていなかったこともあり、この時の切り替えは比較的容易に進んだと秀登さんは語っています。


近隣には無農薬有機栽培に取り組む農家さんが既にいたので、アドバイスをいただくこともあり、また肥料については自分で作ることを教わったそうです。


無農薬茶の栽培というのは、特に緑茶については非常に手間がかかる上に、収量が減ってしまうことがままあります。


加えて、市場や問屋からは買い取ってもらえなくなったという話を聞くこともあります。

しかし、秀登さんの場合は、この当時の茶価が高かったことや経済連に研修へ行っていたことが奏功して、問屋などでも高く買い取ってくれることがあったそうです。


無農薬栽培の滑り出しが上手く行くと、1995年3月には全ての畑で完全に無農薬へ転換し、現在に至ります。


また有機栽培にも取り組んでおり、化学肥料の使用をやめてからは米糠や籾殻などを食べさせた鶏の糞や自家製のボカシ肥料などを使用していました。


2020年頃からは施肥も完全に停止し、現在では完全な無農薬無肥料栽培を行なっています。



4. 循環型農業への取り組み

鶴田製茶では人に優しいお茶を作るため、お茶そのものを健康に育てることを意識しています。

そのために、畑の環境を整え、基礎となる土づくりを大切にしています。


1993年に試験的な無農薬栽培に乗り出し、1995年3月に全茶畑での農薬使用を中止しました。

2007年4月には有機JAS認証を取得しました。


そして、現在は有機JAS規格適合の農薬すら使用しない、完全無農薬栽培に取り組んでいます。


また、前章の記載のとおり、化学肥料にも頼らず、2020年にはそもそもの施肥もしない無肥料栽培に転換しました。

無農薬栽培を始めてからは防虫剤を散布していないので、手で取り除く他に畑に住むカマキリやてんとう虫などの害虫の天敵となる生物の力を借りています。

除草剤も撒いていないため、手作業や機械を用いた除草を行います。

そして、TEA FOLKS 10でご紹介した静岡県牧之原市の釜炒り茶柴本と同様に、畑で飼っているヤギの力に頼ることもあるそうです。

こうして畑を循環させることで環境を整え、お茶そのものを健やかに育てることに秀登さんは力を注いでいます。


5. 先達から受け継ぐ鶴田製茶の紅茶づくり

鶴田製茶では2000年頃から「やぶきた」を用いた紅茶づくりを開始しました。


ちょうどこの頃に知り合ったUFO卵の養鶏農家の方が発酵させたエサを与えていたため、発酵つながりで紅茶づくりを始めたそうです。


また鶴田製茶のある鹿屋市には他に有名な紅茶農家がありました。

しかし、2017年にその方が廃業すると、鶴田製茶はその茶畑と製茶機械を継承します。


継承した茶畑には「いんど」や「いんざつ」などの珍しい印度種が植えられていました。

実は前所有者の方も、この畑は他の方から受け継いだそうで、これらの希少な印度種はこの地で脈々と受け継がれてきたのです。


鶴田製茶では現在、「いんど」や「いんざつ」の他に「やぶきた」や「ゆたかみどり」なども植えており、それらは主に緑茶づくりに用いられています。


これ以上は特別新しい品種を増やす予定はなく、今ある品種を大切に守り抜いていきたいというのが秀登さんの思いです。


それでも、今ある品種の中で変異した茶樹が見られた時は挿木をして、試験的に増やしているそうです。


また、鶴田製茶は畑の他にもブラックティーローラ―(揉捻機)を引き継ぎました。

秀登さんは今後、この機械を用いた紅茶づくりや、ブロークンやシルバーチップなどスリランカ式の紅茶づくりにも力を注いでいきたいと考えています。


6. 鶴田製茶の新たな挑戦

園主の秀登さんは慢性的に腰が弱く、特に昨年はひどく痛めてしまいました。

そのため、現在はやりたいことに対してやれることが限られているそうです。

そのため、残念なことに2022年11月に知覧で開かれた地紅茶サミットには参加できませんでした。


しかし、自社茶園でいずれ実現したいと考えている製茶体験ツアーのために、少しずつ準備を進めています。


鶴田製茶の体験ツアーが実現した際には、「いんど」をはじめ珍しい紅茶用品種や、ブラックティーローラーなども観察させていただきたいですね。



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